正しくない論理の話

スゴ本の中の人が選んだ、1万円で“一生モノの教養”を身につけるための5冊 | マネ会

この記事を読んでちょっと思ったこと。

内容としてはとても良いことが書いてあって共感すること多数。

でもその中で少し気になった点が。

それが『論理トレーニング101題』という本の紹介についてで、

その中にはこんな例題が出されており

えば、「次に含まれる論証の隠れた前提を取り出せ」という問題がある。

 

1. テングダケは毒キノコだ。だから、食べられない

2. 「さっき彼と碁を打ってただろ、勝った?」 「いや、勝てなかった」 「なんだ、負けたのか、だらしないな」

3. 吠える犬は弱虫だ。うちのポチはよく吠える。だから、うちのポチは弱虫だ

 

 

1. は簡単だ、「毒キノコは食べられない」という前提が隠れている。「A=B、B=C、ゆえに、A=C」の論証のうち、「B=C」が省略されたもの。



2. は少し考えると、「勝ってない≠負け」に気づく(囲碁だと持碁、将棋なら千日手)。



3. は分からなかったので解答を見たら、頭をガツンとやられた(誰もポチが犬とは言っていない)。解説を読んでさらに驚く。自明視されている前提が、 ときに誤りの元凶になる。独善的な論証ほど、問題のある前提が隠されているというのだ。これすなわち、詭弁術のイロハ。

気になったのは3番目の問題についてで、その答えとして「ポチが犬であるとは言っていない」とあるが、その答えに疑問を感じたからだ。

 

何故なら、この三番目の問題

吠える犬は弱虫だ。うちのポチはよく吠える。だから、うちのポチは弱虫だ

においては、確かに「ポチ」は何であるか?しっかりと言及されていない。

だがそこで立ち返って考えてみてほしい。

ではそもそもどうして、ここでの引っかけとして「ポチ」を犬の名前だと思うのか?

理由は明白、「ポチ」というのは犬の名前に多く、そのため「名前」として「ポチ」と見ると、それはすなわち「犬の名前」の認知としてのノードが繋がれているためである。そのため、脳は「ポチ」を「犬の名前」と関連して想起し、「ポチ」=「犬の名前」であると勝手に思い込んでしまう。

すると「この問題の要はまさにそこにあるのではないか!それこそ、一方的な思い込みによる誤謬に対する注意を喚起しているのだ!」と、そう思えるかもしれない。

 

だがここではそれに異議を唱えたい。

というのも、仮に「”ポチ”は犬の名前だと言及していないのだから、犬のことではない」という論理が成立してしまうのならば、ではどこまでの言及性が正当なのか?それがまず最初に言及されていない時点で、この問いはそもそも成立していないと言えてしまうからである。

何故なら、この問題の前提には『吠える犬は弱虫だ』というものがある。

あなたはこの文章を読んで「犬」 の部分で何を想起しただろうか?

「そんなもの当然、犬だろうが!」というかもしれない。

だがこの「犬」には隠れた枕詞として(それこそ「ポチ」を犬の名前かどうか?を隠していたように)「会社の」というものがつく場合、ここで言う「犬」とは「(会社の)犬」であり、その場合ここで示す「犬」が人間を示す可能性さえも出てきてしまう。

 

「おいおいそれは詭弁だろ!あまりに論理の飛躍が過ぎるよ!」とお思いならば、ではなぜあなたが「吠える犬は弱虫だ」を読んだ際に、その「犬」を「(動物の)犬」であると思ったのかを考えてみてほしい。

すると考えられるのは文脈としての意味合いから。つまり「吠える」という言葉からの文脈を読み、「吠える=犬=動物の犬」であると、無意識にも推論しているはずだ。

だが仮にこの前提に対する推論が正しいとするならば、その後に続く「うちのポチはよく吠える」における、「ポチ=犬」という推論もまた、「『ポチ』とは一般的に犬の名前に多く見られる=よって犬のことである」といった推論も実は同類のものであり、そのためこの問題の答えとしてある「『ポチ』が犬の名前とは言及されていないため、これを犬と思って捉えることは論理の誤りにつながる」とした答えは、そもそもの前提自体もまた同様の論理的推論からの前提として成り立っているので、この答えが正しいのだとすれば、その前提事態の誤りも認めなければならないことになる(前提における定義の明確化が成されていないため)。

 

なのでこの三問目に関して言えば、「ポチとは犬の名前とは限らない!」という答えを見て「ああなるほど、そういうことか!」と納得してしまうことこそが最大の誤りであり、そこにこそ論理的誤謬を起こしてしまう潜在的な可能性があるのでは?と感じてしまうかぎりである。

あとウィトゲンシュタインなんかはこうした言語における論理学性のあやふさやに嫌悪を示したのであって、そのあやふやさを示そうとした結果、そもそもそれを指摘するのはあやふやさを固持する言語であることに気づいて絶望し哲学からいったん身を引いたものの、そのあと非言語におけるあやふやさをあえて活用することによる論理学性にきづいて哲学界に復帰したというのは有名な話で、本気で「論理ってどういうものなのよ?」と思うのならば、こうした本のみではなく、分析哲学系の本を読むこともお勧め。まあでも言ってしまえば、言語の特徴こそが非論理的にあるのだから、それをすべて論理的に捉えようということ自体がすでに非論理的ではあるのだけど。

 

*1

 

*1:酔っ払った勢いで書いた記事。故に大した見直しもせずに公開する散文的内容だとは思う。