人間の欲求が逆転した現代

この記事を読んで思ったこと。
困難な時代を生きる君たちへ - 内田樹の研究室

現代人は衣・食・住と恵まれ過ぎていて、「当たり前」の事に「幸せ」を見出せなくなっている。
だから、今までは当たり前のように良い事とされていた「良い学校・良い会社」に入る事を
疑問に思うようになった。
『「良い学校・良い会社」に入る事』=「幸せ」とは、もう考えられなくなったからだ。


それで、思い浮かんだのが「マズロー欲求段階説」。
自己実現理論 - Wikipedia

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1.生理的欲求(physiological need)
2.安全の欲求(safety need)
3.所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4.承認の欲求(esteem)
5.自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。

人間の根本的な欲求である「生理的欲求」が満たされない状況というは、現代では皆無と言って間違いない。
同様に「安全の欲求」も既に満たされている人が大半のはずだ。
つまり現代人は、自我を意識し始めた時点で、3段層目の『所属と愛の欲求』、4段階目の「承認(尊重)の欲求」を求めるのではないだろうか。
さらに3段層目までは、十分に満たされている人が既に多いのでは。一部では、ここから満たされない人も出てきているとは思うが。
そして3層目と4層目の共通点は、どちらも他者を通しての欲求だということだ。
生きるための基本的欲求が満たされ切っているからこそ、他者を通しての欲求を、砂漠での水が如く、強く強く求めるのだと思う。
この欲求を満たす事が「幸せ」に繋がると、信じているからだ。
確証なんてないのに。だが、欲求は生きる糧だ。




3層目の『所属と愛の欲求』とは

生理的欲求と安全欲求が十分に満たされると、この欲求が現れる。
情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属しているという感覚

そして4層目の『承認(尊重)の欲求』とは

自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求 

とある。
このように、現代では生きる上での基本的欲求である1層、2層目が満たされているため、この2つを飛ばし、
上記の3層、4層の欲求を特に重視して生活している。
それで1層、2層目の欲求は生まれながらに満たされているので、見向きもせず、意識もしない。
邪険にし過ぎだと思う。それで気付けば食生活が乱れ、健康すらも損なう。
これでは欲求のピラミッドが、まさに逆転してしまっているのではないだろうか?
3層、4層目を満たすために、1,2層目の欲求を無視。
つまり、3,4層目が下に来て、1,2層目が後回しの上層へ。
生きるための基本的欲求が上に行ってしまっては、生物としては本末転倒だ。


これも「幸せ」とやらを、強く追い求めるからだと思う。
もはや現代人は「食べる物がある・安心して暮らせる」ことに、何ら「幸せ」を得れなくなってしまっているのだ。
だから他者を通しての漠然とした「幸せ」とやらを、ただ闇雲に探して彷徨っているのではないか?


その他者から見た「幸せ」とは、お金持ちかもしれない。
しかし、実際に大金を抱いても、果たして幸せだろうか?
そんなことは金持ちになってみなけりゃ分からない。


他者から見た「幸せ」とは、結婚かもしれない。
しかし、実際に結婚してみても、果たして幸せだろうか?
そんなことは結婚しなけりゃ分からない。


ただ、「幸せ」にはなりたい。
「幸せ」であると思いたい。思われたい。
そこで初めて、自分の存在が認められる気がするから…。


「幸せ」という、漠然とした解釈を通して、
自分を確立、表現して、一人前の人間として社会に認められたいのではないだろうか?
だからこそ本来、欲求の下層にある食や健康をおろそかにしてまで、認められようとする。
そこには「認められる」=「幸せ」という概念が、強くあるから。
がむしゃらに追い求める。たとえ体がボロボロになっても。
または、その「幸せ」が何か分からず、呆然と立ち尽くしてしまっているのでは?
動けず、もがき苦しむ。実際は健康体なのに。


「幸せ」なんていうのは千差万別で、他人に合わせる物じゃない。
そして、「幸せ」とは「求める物」であると同時に「向かい合う物」でもあると思う。
自分自身を見つめ直せば、既に多くの「幸せ」と向き合っているはずだ。
それに気づかない事こそが、「不幸」であると思う。


現代人は、認められようとする欲求ばかりが強すぎて、
欲求のピラミッドを逆さにして、背負っているような状態だと思う。
そんな状態じゃあ、きつくて当たり前だ。
ピラミッドを元通り下に置いて、最下層から改めて一層ずつ、噛み締めて昇るべきだと思う。